全ての物にはイメージがくっついていて人間は物をそのまま見ることができない。人間は物にくっついているイメージを見ている。人も絵も写真もテレビも映画も広告も親も友達も音楽も言葉も詩も思想も。全ての物にはイメージがくっついている。
イメージは先入観であり常識である。イメージは組織であり社会であり政治である。イメージは物事の本質を覆い隠す。芸術家は物事のイメージの皮を剥いで本質を突き付けることが仕事である。がしかし、現代においては芸術家自身が巨大なイメージの層に飲み込まれており、彼らが辿り着いたと信じている本質の実体が薄皮一枚剥いだ程度のイメージであることに気付いていない。
本質のように見えるものが実はイメージであること。現実感というものがイメージの世界の中の感覚であるということ。彼らのリアリティーはイメージの中で起きて初めて実感を持つということ。彼らにとっては9.11のテレビの中の飛行機とビルの映像の方が日々呼吸して生きている日常よりもリアリティーを持っているということ。これは完全に末期症状である。
こういう実体のないタマネギのような人間や社会を相手に一体どういった表現をしていけばいいのか。絵も写真も映像も、彼らが感じる本質や現実は全てイメージの中の出来事であるということ。私自身もタマネギにならないと彼らとは会話することも出来ないというわけだ。
私の視界。私だけが知りうる記憶とイメージ。私だけが共鳴できるイメージ。超主体。超主観的世界。他を一切受け付けない完全に孤立したイメージ。どんなイメージにも飲み込まれないイメージ。それはもう視覚的なイメージや意味を持つ物ではなく、超純粋物質なのではないか。それはつまりエネルギーといってもいい。そんなものを作ることが出来るのか?叩くとか。引っ掻くとか。破るとか。いやそれもまだ何らかの既存のイメージがくっついてる。もっと純粋なものだ。
くらやみ。くらやみ。まっくらなせかい。なんのおともしない。だれのこえもきこえない。ぜろのないせかい。ただある。ただなんかある。あるだけがあるせかい。ただある。ただあるのせかい。ずっとえいえんにただある。ある。ある。ある。そのときふときづく。ぜろとあるはおなじだ。あるだけのせかいとぜろのせかいはおなじだ。
