元々私が芸術家であったかどうかも曖昧である。これは芸術である!と意識して絵を描いた事は一度もないし、むしろ私が絵を描くのは呪術的な動機と個人的な必然があったと言った方が自然である。
そして私は貧弱な現代アートに見切りをつけ芸術を放棄した。が、それでも私は絵を描き続ける。これから私が絵を描く理由はどこにあるのだろう。芸術であることを放棄した私の絵はもはや芸術でもアートでも美術でもない。とするならば、その絵はどんな意味を持ちどんな動機で描くのだろう。そんな何度も経験してきたはずの表現の根源的問題とまた向き合っている。
人間が表現することの根源的な意味を探りながら星野道夫に何かを感じ彼の本を読んでいた。すると突然岡本太郎が脳裏をよぎった。本棚の奥から「美の呪力」という本を引っ張り出し確認してびっくりする。いま私が抱えている憤りと同じ憤りがそこにあった。まさにこの岡本太郎の言葉はそっくりそのまま私に、いや現代の人間全てに向けられた言葉であると感じた。
イヌクシュク──北極圏カナダに見られる、不思議な石の積み上げである。まだ、ほとんど人に知られていないようだ。人間の形をした、神像とも、道標ともつかない、しかし神秘な形だ。私は偶然の機会にそのイメージをカナダの刊行物で見て、ひどく心を惹かれた。何か運命的な問題をつきつけられているような予感がしたのである。
この石が無名なのは、芸術的価値を認められていないからだろう。これを紹介する学者さえ、芸術としては大して気をとめていない。ただこういう事実があるから、という調子だ。その点私は大変不満である。
もっと形になって、彫りものがしてあったり彩りがついていれば、「芸術」だといって大騒ぎするのに、このような根源的な表現に対しては、驚くほど不感症なのだ。私はいわゆる美術品に興味がない。芸術家でありながら、展覧会に行ったり、画集をひらいて見るなどということは、むしろ苦痛だ。それらは狭い枠のなかに、窒息してしまっている。なにか惨めな気がする。
人間の生活はいつも全体であり、幅いっぱいにあふれ、ふくらんでいるはずなのに、その一部だけを引き抜いて固定し、形式化して味わうのだ。白々しい。
また、芸術論とか美術史と称して体系づける空しさ。
今日、芸術自体が壁にぶつかってしまっている。人間生活に「芸術」がほとんどなんの力も持っていないことは誰でも感じているだろう。この芸術の疎外感はいったいどうしたのだろう。進歩進歩でひたすら流れてゆく社会体制の中にありながら、芸術こそ、社会の部品である空虚感を脱し、時空を超えて人間再発見をしなければならない役割にあるのに。
「美術品」や「芸術」の、あのよそよそしさ。そのなま皮をひっぱがして、自由なイマジネーションをふき上げるべきだ。
美術史というのも奇妙だ。今まで「世界の美術」として通用していたのは、西欧中心のまったく偏った組み方であり、世界全体の重みにこたえてはいない。
今日、西欧的な美の伝統というものは社会の諸条件と同じように、行きづまっていると思う。確かに一つの文化、その在り方、質によって貫かれ、コンデンスされた構築物だったかもしれないが、それとは違った生き方、美の伝統の広大な領域を捨象してしまっている。西欧の目だけから見た世界であり、しかもその美学が中心になっている。そして、彼らの「時間」によって捉えられた流れであるにすぎない。
本当の世界観は、現時点、この瞬間と根源的な出発点からと、対立的である運命の両極限からはさみうちにして、問題をつきつめていかなければならないはずだ。歴史は瞬間に彩りを変えるだろうし、美術は美学であることをやめて、巨大な、人間生命の全体をおおい、すくいあげる呪術となってたちあらわれるだろう。岡本太郎(1971)「美の呪力」新潮文庫 pp.11-13
ならば私は芸術家から呪術家へと肩書きを変えればいいのか。そんな単純なものではない。このイヌクシュクという石を積み上げる行為は芸術という狭い概念では捉えることのできない非常に根源的な創造行為であり、言語や思考になる以前の純粋なエネルギーの固まりであり緊張であり、私はそこから根源的創造の本質を見つけることが出来るかもしれない。
呪術や神秘という言葉から現代オカルトしか発想できない人間は無知である。原始芸術は宗教や信仰そのものである。それは我々現代人が想像するような宗教や信仰の形とは異なり、生活すること食べること生きることそのものが深い信仰行為であった。それに比べて美術史や哲学史といった他者の文脈に寄りかからないと一人で立つことも出来ず、その結果主体性を失い観念化していく現代アートこそ胡散臭いオカルトと言えるかもしれない。
芸術だけではなく人間は何らかの信仰がないと生きることができない。現代人が最も信仰する宗教は科学である。科学的客観性があれば何でもかんでも信じてしまう従順な信者である。最近の日本では脳科学教が盛んである。何でもかんでも脳と関連づけて納得したような気になっている。先日見たテレビ番組ではおばちゃん相手に脳科学者が人生相談をしていた。
神や仏を信じない日本人もテレビやマスコミは信じる。いや信じていたと言った方が今は正しいのかもしれない。テレビは衰退しマスコミが権力を失うなか、古い体制に抵抗するだけの新しい価値を見出せない若者達は行き場を失い無差別に他者を傷つけるかもしくは自殺するかもしくは無目的に生き続けるかしかない。
しかしそれでも正月は初詣に行き参拝しお守り買って安心したりする人もいるでしょう。神道や仏教を意識しなくても漠然と神様に祈ったり願い事して安心するでしょう。例えば「悪いことをすればいつかは罰が当たる」という考えも元々は因果応報という合理的な仏教理論であるが、誰も具体的な因果関係を証明しようとは思わないでしょう。何となく目に見えない力が働いて悪者に罰が当たるというのを漠然と信じている。しかし私はそれでいいと思う。全てを説明しようとしないほうが利口である。(それらを説明しようとしたのが今で言うところの複雑系とかカオス理論になるのかもしれない。例えば「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」というバタフライ効果と呼ばれるものもその一つである。)
エスキモーが極めて強いシャーマニズムの信仰に支配されていることはよく知られている。イヌクシュク群の見られるバフィン島の話だが、ここのシャーマンがある男に「お前は死ね!」と言ったら、若くて健康だったその男が、食が細くなって四日目に死んでしまったということだ。岡本太郎(1971)「美の呪力」新潮文庫 p.28
この話の場合、因果関係の過程の部分を飛び越えてシャーマンの言葉が直接的にその若い男に作用しているのが興味深い。目に見えない力があるというのが常識であるエスキモーにとって過程の論理的理解など必要ない。言葉が直接作用するものである彼らにとって生きる上での全ての行為が理論を超越した直接的な力を持っている。そんな彼らにとって石を積み上げるイヌクシュクはどういった意味を持っていたのだろうか。
つい七、八十年前まで、エスキモーはそれを作っていたのだが、文明の浸透によって暮し方も変り、生活の場そのものが移動してしまった。古い記憶をもった老人も絶えつつある。土地の言葉で「イヌクシュク」は、"人間的力で行為する"という意味だそうだが、何を行為したのか、もうすでに生活の内側からそれを捉える手がかりは失われてしまっているようだ。岡本太郎(1971)「美の呪力」新潮文庫 p.26
20年の長きにわたって研究してきた極北民族に対するえこひいきもあろうが、イヌイットほど遊び好きな人々はほかにないような気がする。猟の途中でも、簗で魚をとっている間でも、テントでくつろいでいるときでも、老若男女いつでもどこでも遊びに興じてしまう。
ここで注意を喚起すべきは、イヌイットには「遊び」と「労働」という観念を区別する思想はなかったことである。それぞれの遊びやゲームには名前があったが、これは「遊び」だ、これは「労働」だという区分はなかった。
遊びと労働の区別がなかった自由な彼らがあえて"人間的力で行為する"という意味を持たせたイヌクシユクとは遊びを超えた特別な表現だったということなのか。
第二のポイント──石を積み上げるという神聖な、呪術的行為。
地面にころがっていた石っころも、それを二つ集め、三つ集める。手にふれ、積む。積み上げつつあるとき、そこにある石はもうただの石の塊ではない。人聞が自分の手で取り上げ、積む行為によって、冷たい石塊を自分のうちに入れてしまう。合体するのだ。石はそのとき「人間」になるのである。
石積みの場合、石の神秘感と、積むという行為の呪術性と、どちらが強いのか、なんともいえない。そのかねあい、意識・無意識の緊張の上に成り立っているのではないか。
第三のポイント──積み上げ終り、手を放し、ふと身を引いた瞬間に、それはまったく新しい存在、他者として自分の前にたちあらわれる。もうただの石ころ、その集合ではない。また自分自身でもない。それらのモメントを超えた存在が出現するのだ。
三つの異なった「時間」がイヌクシュクという実体にコンデンスされている。これがわれわれに強烈な衝撃を与えるのは、その根源性の故であるが、実はそれは「芸術」のプロセス全体に対応するし、人間存在自体をも象徴している。だからその響きが激しくこちらにつたわってくるのである。
芸術創作において、素材は他者である。それに精神を凝縮する。作者が働きかけ、行動すると、それは素材ではなくなり、作る者のうちに入り、作者自身になってしまう。さらに完了してイメージが定着されると、それは人間を離れる。作られたものとして自立するのだ。作者にとっても他者である。この自他のかみあいは創作者の上に、いわば危機的に実現している。岡本太郎(1971)「美の呪力」新潮文庫 pp.37-38
真っ白な紙に線を一本引く。ただそれだけで表現となる。その線の揺らぎやその線の強さは線を引いた者の全てを表す。しかしそれは紙の上に付着している粒子であるとも言える。線は人間の意志であると同時に何ものにも束縛されない自立した物質であるのだ。物質を人為的に操って形作るという行為が表現であり、そこに生じる緊張がエネルギーを生むのである。
もう一つの問題。
イヌクシユクは石がただ積んであるだけ。全然接着していないというところに私は、暗示をうける。いわゆる「作品」としての恒久性、そのものとして永続するなどということは期待していないのだ。一突き、ぐんと押せば、ガラガラと崩れる。すると像は忽然と消えてしまう。そこらに転がっているのとまったく見分けのつかない、ただの石ぐず、二度ともとの形になることのない瓦礁に還元されてしまうのである。ギリシャの神像やアッシリアの浮彫りが頭、腕とばらばらに発掘されても、それは一応復元できる。また、たとえ腕一本でも、胴体だけでも、それは像である。だがイヌクシュクはまったくの無にかえってしまう。
感動的だ。このような、存在と無存在の危機のポイントに、平気で立ちあがっている姿こそ神聖ではないか。岡本太郎(1971)「美の呪力」新潮文庫 pp.38-39
イヌクシュクが一体何であるのかはやはり謎であるが、表現の本質は具体的な目的や意味を持つ以前の状態であり、人間が物質と向き合うことで生じるエネルギーそのものであると感じた。そしてそのエネルギーは無に帰すことでより強さを増す。それは自然に生きる者の死の肯定である。我々現代人には到底理解できない死生観がそこにある。
関連サイト
Inukshuk - Wikipedia
エスキモー - Wikipedia
バフィン島 - Wikipedia
Archives & Museum Informatics: Museums and the Web 2005: Papers: Greenhorn, Project Naming: Always On Our Minds
自殺予防総合対策センター

