舞踏・現象・本質

2月8日の天狼星堂舞踏公演に行きました。
久しぶりに舞踏を見てワタルさんと大倉さんと沢山話ができて楽しかった。

他の舞踏でもあるのかどうか知らないけど、
天狼星堂は終わった後に観客と一緒に酒を飲んで、
色々話す場を与えている。

観客は舞踏家に好き勝手な感想や批評を言って、
それをすごく謙虚に聞いてくれる。

こっちとしてはすごく楽しいが、
観客の感性も千差万別なので、
ある人が褒めた部分をある人があれは駄目だと言われたりで大変だろうと思う。

それでも真剣に話せる場があるのはとても良いことだ。
そういう真面目さが僕はとても嬉しい。

しかし舞踏にはどこか批評を待ち受けるかのような雰囲気があって、
こちらも腕を組んで見なければならないような気難しさがあるので、
単純に、綺麗だったね!とか、美しいね!とか、色っぽいね!とか、言えない雰囲気がある。

ただ普通に歩いているだけでも、
それが意図的な外しであったりして、
普通に歩くということが純粋にできなくなるし、
こちらも普通に歩いているんだと思うこともできなくなる。

もっとそういう思考を超えた部分でただ舞ってるだけでもいいと思うが、
そうなるとやたらと"こぶし"で聴かせるだけの心ない熟練演歌歌手のようになりかねない。

表現において、偶然を装ったり、偶然の要素を取り入れたとしても、
絶対に人為的な行為であることは避けられない。

しかし、達人の域になるとそれを感じさせない何かがあって、
そこにいることがまるで必然であるかのようであったりするのではないかと勝手に想像する。

絵においても例えばベラスケスやレンブラントのような達人の肖像画になると、
まるで何も表現されていないようにただあるがままに人物を描いている。

そういう絵が芸術の唯一のオリジナル(本質)となり、
ベーコンやピカソなどの近現代のアーティストはただそれに対してのリアクション(現象)という形での表現に終わっているのではないか。


芸術は現象であるか、それとも本質であるか。


Date: 09.02.10

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