反資本主義アートについて考える。その2

「反資本主義/アート」を読み進めるに従い、
ある部分には共鳴しつつも、
ある部分には違和感と共に拒絶している自分に気づく。

最近ではアートの内面性やアートの難解さを否定したり、
主体性を持つことがダサイと本気で思っている人達が多くて困る。

アートは難解なのではなく言葉を持っていないだけだ。

アートを言葉や概念で理解しようとする人達にこそアートは難解であるのかもしれない。
しかし、それは受け手の解釈次第であり作品そのものは難解でも簡単でもどちらでもなくただそこに存在しているだけだと思う。
むしろド素人のおばちゃん達の方が美術館で素直に作品の本質を感じ取っている。

それから主体性を持たず作品を作ることは絶対に不可能だ。
「主体性なんていらない」という屈折した主体性の方が、私にはむしろ自意識過剰のように思える。


私は、私が目標とするアートについて以下のように考えている。

1.アートは、内面(inside)へ向かうことではじめて具体的な外面(outside)が形成される。

2.アートは、作品外で起きた社会現象への反応で形成された作品よりも、
  作品内だけで自立する現象と反応によって形成された作品の方が内包するエネルギーがより強く普遍的である。

3.アートは、社会を風刺するための道具ではない。
  抗議することが目的ならばアートは問題を抽象化させるだけだ。


芸術家としての私は、資本主義者でも反資本主義者でもない。

その時その瞬間の己の直感に素直に従い、
純粋に画家として絵を描いていくことに精進しなければならない。

そしてそれが社会を変えることにつながる一番確実で一番小さな運動(活動)であると信じている。


追記:09.03.16

3.に関しては今も悩んでいる。

この文章を書いてからピカソのゲルニカについて書かれた文献を色々読んでみた。
が、明確な答えは出なかった。

社会に対するメッセージをどう表現していけばいいのか。

例えば発言する。
例えば具体的な行動で示す。

では、描くとするならば、どんな表現方法あるのか。
崩れるビルを描くのか、殺される人間を描くのか、米軍ヘリを描けばいいのか。

描かざるを得ない状況で描いた絵は真実かもしれない。
それが生々しい叫びであるならばなんであっても表現であると言える。

ただアートを道具として利用し安易にイメージに訴えるという非主体的な態度に納得がいかないだけである。

それが、自分の腹の底から出た真実の叫びである時に限っては、
抗議または抵抗する手段として使われても仕方がないと思う。
だが、そうならざるを得ない状況はとても悲しいことだ。

つまり、憤りと矛盾と悲しみに溢れているからピカソのゲルニカは美しく力強いのだ。

しかし、私は描くことで優しさを与えられる画家の方がもっと力強いと思う。


Date: 08.12.21

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