反資本主義アートについて考える。

図書館で「芸術起業論」と、「反資本主義/アート」を借りて読んだ。

前者については本屋の立ち読み程度でどうこう言うのは申し訳ないので、
きちんと読んでみることにした。

あらためてびっくりするほど安易な考えであることを知り、
当然だが私の芸術の方向性とは180度異なり少しも参考になりませんでしたが、
自分はこっちではないということを再確認するためなら読んでもいいと思った。

でも話としては、海洋堂とのやりとり等、
よくあるサクセスストーリーとして読むと面白くその行動力に感心もした。
なんだか人としては憎めない感じもする。

ただやっぱり思想の違いを抜きにしても、
作品自体に全く感動できないのでそれ以上の興味は持てなかった。


後者については、前者と違ってびっくりするほど濃厚な内容に一瞬たじろぎました。

楽しみにしていた、
イルコモンズの「〈帝国〉のアートと新たな反資本主義の表現者たち」を読みました。
その内容に全く賛成。

文章から滲み出るようなイルコモンズの怒りや憤りに共鳴しながら、
面白いことに気付いた。
両者どちらも同じように憤りと怒りをあらわにしていた。

しかし、
その憤りの言葉が一方では「もっとブランド力を高めなければ〜!」であり、
一方では「アートは商品ではない!」と叫ぶ姿はまるっきり正反対。


だからと言って「反資本主義/アート」に書かれている他のテキストに完全に同意かというとそうでもない。

この本全体に良く出てくる「アクティビスト」という言葉に少しひっかかる。

活動家であることの、
その「活動」とは一体何をさして「活動」的であると言えるのか。

私は資本主義に反対であっても、作品を通してそれを直接的な表現で訴えようとは思えない。
社会を少しでもよくしたいとは思っていますが、
それをどういった方法で表現すればいいのか追求すればするほど、
私は私の内面と戦う「活動」を選んでしまう。
選んだと言うよりも自分の創作生理に素直に従ったという方が正直なところ。

しかし、
それは内面であってもキャンバスに描くわけですから結局は外に向かっているわけで、
こういった芸術家でも「アクティビスト」と言えるのでしょうか。

私にとって言葉は捨てる物であり、
考えて考えて考え抜いて頭が言葉でいっぱいになりますが、
キャンバスに向かうときに言葉は全く不必要なので全部削除。
そういう状態が作品を作る上で一番良い。

政治や社会は言葉に過ぎないのではないか。
記号に過ぎないのではないか。

創作する行為は、全く別次元の出来事でなければならない。

私の魂が震えるほど感動するのは、
いつも結局は目の前にある作品であり、
作品そのものが持つ、
自立した存在感・自立したエネルギー・自立したメッセージに対してである。
そこに言葉は全く必要ない。

しかし作品が魅力的な芸術家は言葉も同じように魅力的であるのも事実だが、
やはり言葉と作品は切り離して捉えないと正しくは作品を受信できない。

反資本主義の考えには賛成するが、
それは芸術家としてではなく、
一人の生活者としてである方がより具体的な行動で示すことができると思う。

それならば、
一人の生活者として反資本主義であるにはどうすればよいか。

まず、できるだけ買わないことかな。


Date: 08.12.20

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