宗達は凄い。宗達の絵は生きている。
宗達に描かれたものたちは絵の中で永遠に生き続ける。
私は最近たらし込みという技法に興味を持ち宗達に辿り着き風神雷神図を模写した。
宗達の雷神を見よ!あの雷神は本当にいる!
冗談でも大袈裟でもなく心底存在していると言い切れる!
ゴロゴロゴロ、ドドーン!
ゴロゴロゴロゴロ、ドドドドーン!!!
あの雷神は本当にいる。
模写を描いたその日は大きな雷が一晩中鳴り響いていた。
私は宗達の雷神を描きながら上空で太鼓を叩く雷神の存在を実感していた。
丁度良い時期に東京国立博物館で大琳派展というのが始まった。
しかし光琳の絵はなんであんなに弱いのだろうか。
風神雷神図の比較をやるらしいが光琳の模写はあれはただ書き写しただけだ。
あそこにいる風神雷神からは何も感じない。生きてる感じがしない。
模写する時に一番難しいのは絵の形を真似ることよりそこに封じ込められた魂を呼び戻し再度火を付ける作業であると思う。
それをやるには原形にとらわれず一度自分の中に飲み込んでさらに自分から湧き出るように描かなければならない。
光琳の他の絵もあまり好きじゃない。
構図によるデザインの面白みに囚われすぎて芸術の本質である危うさが無い。
三島由紀夫も書いてるが宗達の絵は装飾的でありながら装飾主義ではないギリギリのところで成立している真の芸術である。
装飾とは何か。
それは技法とは何かと問うことと同じことであると思う。
「たらし込み」一つの技法を取ってもそうだが、何故宗達以後の琳派が受け継いだ「たらし込み」はあんなに弱いのか。
「たらし込み」を絵を綺麗に飾り立てるための装飾的効果としてしか使わず「たらし込み」が本来持っている血痕のように生々しい物質としての存在感を切り捨てている。
「たらし込み」の本質は、墨の粒子が紙の上でぐちゃぐちゃに乱れ交じり、形になることを拒否する物質の本性をさらけ出しながらも、限界ギリギリの状態で形として置かれてしまう存在の運命や揺らぎを表現するものであると私は思う。
だから光琳のようにきっちりと形(構図)に収まってただ堂々としているだけの絵はつまらない。
宗達の描く風神と雷神との間にある余白の尋常じゃない緊張感を見よ!
あれは形(構図)から先に生まれたものではなく、まず魂が先に生まれそれが空間でせめぎ合うことで生じる限界の間合いそのものである。
それが結果的には魅力ある形(構図)を持つが決して安定はせずいつ崩壊するかわからない存在そのものの危うさを暗示しているように思う。
